【ブルネイ夫婦旅 第1話】黄金の小国へ。成田から響くロイヤルブルネイ航空、機内食とヒジャブのCAさん

「次の連休、どこ行こうか」と妻に聞かれて、ふと出てきたのが「ブルネイ」だった。隣の国マレーシアやシンガポールには何度も行っている。でもその間にぽつんと挟まる小さな王国のことを、私たち夫婦は名前くらいしか知らなかった。石油で潤った国、王様がいる国、ムスリムの国──断片的なイメージばかりが頭に浮かぶ。だからこそ行ってみたい、というのが私たちの出した結論だった。
四十代後半に差し掛かり、子どもも独り立ちした今、夫婦のあいだで「思い出貯金」という言葉を使うようになった。お金を貯めるのも大事だけれど、それだけだと将来の自分は寂しい。今日という日を大切に生きながら、少しずつ将来のために積み立てていく。それは現金だけじゃなくて、二人で見た景色、口にした料理、笑い合った夜──そういう”思い出”の貯金でもある。後悔を最小限にするための、私たち流の生き方だ。今回のブルネイ旅も、そんな積み立ての一回だった。連載で記録に残しておきたいと思う。
出発の朝、成田空港の和定食でスタート

朝、成田空港。チェックインを済ませて出国審査の前に、二人で軽く食事をとった。妻が「しばらくお米食べられないかもね」と言うので、迷わず和定食を選ぶ。白いご飯と味噌汁、刺身、お新香。出てきた瞬間、なぜか少し感傷的になった。「いってきます、日本」と心の中でつぶやく。これも夫婦旅の儀式みたいなものだ。

朝の便のせいか、ターミナルは思ったより空いていた。チェックインカウンター「C」の表示が眩しい。直行便がない国へ向かう旅は、出発の時点から少しだけ非日常感がある。カウンターでパスポートを差し出すと、係員さんが「ブルネイ、いいですね」と笑顔で言ってくれた。そんな一言で、これから始まる旅への期待が一気に膨らんだ。

17番ゲート。妻と並んで搭乗開始を待つ間、ガラス越しに見える滑走路を眺めていた。「ブルネイって、何時間くらいで着くんだっけ?」「直行で六時間ちょい、らしいよ」。ハワイより少し近いくらい。意外と気軽に行ける距離なのに、日本人観光客の姿はほとんど見かけない。だからこそ自分たちで開拓しに行く感覚が楽しい。
初めてのロイヤルブルネイ航空

機体が見えた瞬間、二人で「お、かっこいい」と声がそろった。ロイヤルブルネイ航空、通称RB。黄色とブルーをベースにした、上品で誇り高さを感じる塗装。実は搭乗前、ネットの口コミを少し気にしていた。「アルコールが出ない」「夜便がない」「機内食が独特」──情報の断片が頭をぐるぐるしていたけれど、機体を見たらそんな雑念はどこかに飛んでいった。これも旅の醍醐味だ。

機内に入ると、思ったよりも近代的な内装に少し驚いた。各座席には個人モニターがあり、映画もそこそこ揃っている。乗客はほとんどがマレー系の方々で、ヒジャブを被った女性がたくさん乗っている。日本人らしき乗客は、ざっと見た限り私たち夫婦と、後ろの方に一組いるだけだった。海外旅行で「日本人がほぼいない便」というのは、ここ最近では珍しい体験で、それだけで非日常感が一気に高まる。

ヒジャブを纏った客室乗務員さんがにこやかに迎えてくれる。淡いピンクのヒジャブ、その下からのぞく落ち着いた笑顔。動作のひとつひとつが穏やかで、なぜか日本の旅館の女将さんを思い出した。「Welcome on board」という言葉が、英語というより少し違うトーンで響く。妻も「素敵だね」と小声で言っていた。ムスリムの国の航空会社に乗る、ということが、こんなに新鮮な体験だとは思わなかった。

離陸して水平飛行に入ると、最初に配られたのはお茶と小さなピーナッツ。お茶を一口飲むと、ほんのり甘い独特の風味。妻と顔を見合わせて「あ、これがブルネイの味なのかも」と笑い合う。アルコールはやはり出ない。でも不思議と物足りなさは感じない。お茶でじゅうぶん、というか、こういうゆったりした始まり方も悪くないなと思った。

しばらくして登場した機内食は、なんと和食ベース。日本発の便だからだろうか、ご飯に煮物、玉子焼き、漬物、それにロールパンとコーヒーまでついていた。デザートは桃まんじゅうのような甘いお菓子。「これ、はずれないやつだ」と言いながら二人でぱくつく。海外の航空会社で出てくる和食は、当たり外れがけっこう激しい。でもRBの機内食は、ちゃんと出汁の味がしてホッとする出来だった。

食事を終え、映画を一本観終えたあたりで、モニターに「Time to Destination 0:15」の文字。残り15分。ボルネオ島の北西、地図上では小さな点のような場所に、これから降り立つ。隣の妻はもう着陸モードに入っていて、髪を直したり、リップを塗り直したりしている。長距離フライトのこういう”終盤の儀式”も夫婦旅の風物詩だ。
ブルネイ国際空港、初めての”アラビア文字”

着陸して、ボーディングブリッジを歩く。空気感が日本とまったく違う。湿度の高い、少し甘い匂い。「来たね」と妻に声をかけると、無言でうなずいて笑った。これから始まる旅の予感が、足の裏からじわっと伝わってくる。

到着フロアに入って最初に目を奪われたのが、案内サインのアラビア文字だった。英語と並んで、流れるような曲線の文字が並んでいる。マレーシアでも見たことはあったけれど、ブルネイではアラビア文字の比重が明らかに大きい。「ここは本当にイスラム圏なんだ」と、看板ひとつでぐっと実感が湧いてくる。

入国審査の手前で目に入った緑色の広告に、思わず笑ってしまった。「The Biggest Mall in Brunei」。ブルネイで一番大きいモール。“国一番”のショッピングモールがこの控えめな自己紹介でいい、という感覚が、もう日本ともシンガポールとも違う。のどかでいいなあ、と妻と顔を見合わせる。あとで実際にこのモールにも行くことになるのだけれど、それはまた別の回で書こうと思う。

入国審査は思ったよりスムーズだった。ヒジャブを纏った女性審査官が、私のパスポートを開いて「日本から?何泊?」と短く聞く。ホテル名と滞在予定を答えると、軽くスタンプ。妻のときは少しだけ世間話のように「観光?」「Yes」「Welcome」とにっこり笑ってくれた。なんだろう、この国、ピリピリしていない。観光客として歓迎されているのが、空気でわかる。


バゲージクレームは驚くほど静か。日本やバンコクの空港のような賑やかさはなく、ぽつぽつとスーツケースが流れてくる。ベルトコンベアの上にはSIMカードの広告。「Maklumkan orang tersayang yang awda telah mendarat(大切な人にあなたが着いたことを知らせよう)」とマレー語で書かれている。”awda”なんて単語、はじめて見た。スマホで検索しながら「ブルネイ独自のマレー語、面白いね」と妻と言い合う。

税関を抜けるとき、申告するものは特にないので素通り。途中で「Goods to Declare」の真っ赤なカウンターを横目に見ながら、ヒジャブの職員さんに会釈すると、にっこり返してくれた。イスラム圏=厳しい、というイメージは、ブルネイでは早速いい意味で裏切られる。むしろ、人としての距離感が穏やかで丁寧。緊張していた肩の力がふっと抜けていく。
空港のロビーから垣間見える”小さな王国”


ロビーに出ると、想像していたよりずっとモダンな空間だった。三角形のフレームを連ねた天井から、自然光がやわらかく落ちてくる。アラビア風のリング状の照明、白を基調とした壁。決して豪華絢爛ではないけれど、抑制の効いたデザインで、すっきりと美しい。「石油でめちゃくちゃ豪華に作ってあるかと思った」と妻が笑う。たしかに想像はそうだった。でも実際は、品の良さで勝負している建物だ。

空港の壁には、ブルネイを代表するモスクの大きな写真パネル。青いドームと金色の装飾が美しい、オールド・モスクと呼ばれる建物だった。明日にはきっと、この景色を実物で見ることになる。「絵葉書を、これから自分の足で踏みしめに行ける」── 旅の楽しみは、結局のところこれに尽きる。パネルを見ながら、明日からのスケジュールに胸が高鳴った。

空港の出口を出てピックアップエリアに進むと、目の前にすっと停まったのはシルバーのトヨタだった。「TOP IN CLASS, BEST IN VALUE」というステッカーが誇らしげに貼られている。事前に「ブルネイは日本車だらけ」と聞いてはいたけれど、本当に最初に目に入る車がトヨタだとは。なんだか、はるばる飛んできた感覚と、変な親近感が同時に襲ってくる不思議な瞬間だった。
旅は始まったばかり ── 次回は街と王の国へ
これでようやく、空港から外の世界に出られる。妻と二人、機内で読んでいたガイドブックをカバンの中で眠らせて、いざ街へ。次回はホテルの第一印象、夕暮れの街歩き、そしてブルネイならではの”ノンアルコール文化”の中で味わう最初の夕食について書く予定です。
振り返ってみると、空港に降り立つまでの数時間だけでも、もう「来てよかった」と思えるシーンがいくつもあった。大袈裟かもしれないけれど、こういう小さな”良かった”を積み重ねていくことが、私たち夫婦にとっての”思い出貯金”なのだと、改めて思う。今日を大切に生きて、未来の自分たちが寂しくならないように、思い出を少しずつ増やしておく。お金だけじゃない貯金。それが、私たちが選んだ生き方だ。
連載第2話、ぜひお楽しみに。





