【ブルネイ夫婦旅 第5話】国王の傘とジャングルの急流——モスクの静寂とテンブロン川で味わった「本物のドキドキ」

旅の中盤を過ぎた頃から、妻が「詰め込みすぎじゃない?」と言い始めた。確かにそうだった。朝から晩まで動き回って、ホテルに帰ってきたら疲れて倒れるように眠る。それはそれで旅らしくていいのだけれど、せっかく日常から離れたのだから、もう少しだけゆったりした時間も作りたい。だからこの日は、欲張らずに「行きたいところだけ」に絞ることにした。

朝のビュッフェで始まる一日
ホテルの朝食は、広い会場にズラリとバリエーション豊かな料理が並ぶビュッフェスタイルだった。フルーツにパン、卵料理、ローカルフード。欲張りな私はつい山盛りにしてしまって、妻に笑われた。「旅でこんなにしっかり食べる人、初めて見た」と言われたけど、現地の料理を全部試したいという気持ちは止められない。

ホテルのロビーから外を眺めると、目の前に穏やかな海が広がっていた。朝の光を受けてきらきらと輝く水面。港には船が停泊していて、絵のような景色だった。窓ガラス越しに切り取られた風景は、まるで一枚の写真のよう。「急がなくていい日って、いいね」と妻が言った。その言葉に、私も素直に頷いた。

ジャーミー・アサル・ハサニル・ボルキア・モスク——息をのむ荘厳さ
ブルネイには有名なモスクがいくつかあるが、この日に訪れたのはジャーミー・アサル・ハサニル・ボルキア・モスク。国内最大規模を誇る、黄金のドームを持つ壮大なモスクだ。
エントランスを入ると、美しいアーチ型の回廊が続いていた。白とゴールドの装飾が施されたアーチが連なり、その奥に噴水と緑の庭園が広がる。驚いたことに、エスカレーターまで備わっていた。近代的な設備と伝統的なイスラム建築が見事に調和していて、「ここ、モスクだよね?」と妻が小声で聞いた。あまりにも豪華で、一瞬別の場所かと思ってしまったほどだ。

礼拝堂の中に入ると、思わず声が出そうになった。白いドームに包まれた広大な空間、そして天井からいくつも吊るされた巨大な金色のシャンデリア。床には細かな模様が描かれた絨毯が広がり、静かで神聖な空気が漂っていた。礼拝の時刻でないこともあり、観光客も数人いる程度。妻と二人、しばらく何も言わず、ただその空間にいた。


「これ、礼拝の前にやること」と妻が小声で教えてくれた看板があった。英語と中国語で「ウドゥー(礼拝前の清め)」の作法が丁寧に説明されていた。イスラム教に縁のない私には初めて知ることばかり。手を洗い、口をすすぎ、鼻に水を通し、顔を洗う——その細やかな手順に、信仰の深さを感じた。非ムスリムの見学者にも丁寧に文化を伝えようとする姿勢が伝わってきた。

モスクの敷地内には池があり、色鮮やかな鯉が泳いでいた。オレンジや白、まだらの鯉が群れになって優雅に泳ぐ姿に、妻は夢中になってスマホを向けていた。「日本と変わらないじゃない」と言いながら、目を細めてその姿を眺めていた。異国の地で出会う見慣れた存在に、なぜかほっとする気持ちがある。

ロイヤル・レガリア博物館——国王の宝物を目の当たりに
モスクの近くにある「ロイヤル・レガリア博物館」。ブルネイ王室にまつわる品々が展示されている場所だ。入場は無料で、観光客だけでなく地元の人々も訪れていた。
館内に入ると、まず目に飛び込んできたのは色とりどりの儀式用の傘。黄色、白、緑、黒、赤と、鮮やかな色の傘が整然と並んでいた。これはブルネイ王室の儀式で使われるもので、それぞれの色に意味があるという。王室文化の奥深さに触れた気がして、しばし立ち止まって眺めた。ちょうど逆光で金色に照らされた展示室が、なんとも美しかった。

ブルネイは石油で潤う豊かな国として知られる。その富がどのように使われているのか、この博物館を歩くと少しだけ見えてくる。展示品の細部に至るまで丁寧に作られていて、国への誇りが伝わってくるような空間だった。妻は「なんか、日本の正倉院みたい」と言っていた。確かに、国の宝を後世に伝えるという気持ちは、世界中どこでも同じなのかもしれない。
テンブロン国立公園——手つかずのジャングルへ
午後はテンブロン国立公園へ向かった。ブルネイ南部に位置する、ほぼ手つかずの熱帯雨林が広がるエリアだ。ガイドさんに連れられ、乗り合いのボートで川を進む。緑に囲まれた茶色い川を、エンジン音とともにぐんぐん遡っていく。
途中、川岸に停泊した細長い木製のボートと、緑の木々を背に架かる吊り橋が見えた。橋の影が川面にくっきりと映り込み、静かで絵のような風景だった。妻はしばらくそこを眺めて「ここだけ時間が止まってる感じがする」と言った。確かにそんな雰囲気があった。

しかし、川は急に牙を剥いた。急流区間に差し掛かると、ボートの揺れが激しくなり、周囲の木々が勢いよく流れていく。黄色みがかった濁流が岩にぶつかって白く砕け、轟音を立てている。妻の表情が「楽しい」と「こわい」の中間になっていた。私も正直、ドキドキした。でも、あのスリルが旅の記憶として深く刻まれた気がする。

国立公園の中を歩くと、熱帯雨林特有の植物が次々と現れた。大きな葉っぱ、絡まり合うつる植物、苔むした岩に這い登る木の根。日本では見られない圧倒的な生命力がそこにはあった。

ふと足元に目をやると、小さな赤い実をつけた植物が落ち葉の間に顔を出していた。鮮やかな赤が、暗い緑の中に映えていた。名前は分からないけれど、こういう小さな発見が旅を豊かにする。

そしてウツボカズラ。落ち葉の間にひっそりと潜む食虫植物だ。ずんぐりとした袋状の葉が少し禍々しくも神秘的だった。「これが虫を食べるの?」と妻が顔をしかめながら近づいていった。その表情が面白くて、思わずカメラを向けた。

木の根が苔むした大きな岩を抱くように伸びている光景も印象的だった。長い年月をかけて積み重なった自然の造形に、時間の感覚が狂いそうになる。この木は何百年前からここにあるのだろう、と妻と話した。旅の中で、こういうことをぼんやり考える時間が私は好きだ。

帰り道に見た「現代のブルネイ」と夜市の賑わい
テンブロンから戻り、夕方にショッピングモールへ立ち寄った。ブルネイのショッピングモールは規模が大きく、品揃えも豊富だ。そこで目に入ったのが、AVATR(アバター)という中国製の電気自動車のショールーム。黒く光る流線型のボディが、モールの入り口に鎮座していた。

「こんな車、見たことない」と妻が声を上げた。ブルネイは豊かな国だ。石油収入に支えられ、国民は税金がなく、医療も教育も無料という。新しい技術もどんどん入ってくる。そのことを実感した一コマだった。
夜は地元のナイトマーケットへ。屋台が立ち並び、地元の人々でにぎわっていた。焼き物の匂い、揚げ物の煙、どこか懐かしくてほっとする喧噪。観光客向けではなく、地域の人たちの日常がそこにあった。

夕食は、カラフルなランタンがぶら下がるレストランで。赤や青、緑のランタンが天井から連なり、まるで祭りの夜のような雰囲気だった。料理を口に運びながら、「この旅、来てよかったね」と妻がぽつりと言った。

旅の終わりに感じたこと
帰りの飛行機の中で、窓の外をぼんやり眺めながらこの旅を振り返った。派手な観光地があるわけでもなく、有名なテーマパークがあるわけでもない。でも、一歩踏み込むと、圧倒的な自然と深い文化と豊かな暮らしがあった。
モスクの礼拝堂で感じた静寂、テンブロン川の急流のスリル、ジャングルの中でウツボカズラを見つけた時の感動。それをこの目で見て、妻と二人でその場に立てたことが、何よりの収穫だった。


「将来、また来られるかな」と妻が言った。「来ようよ」と私は答えた。旅は終わっても、記憶は残る。いつか年を取って振り返ったとき、「あの時行っておいてよかった」と思えるような瞬間を積み重ねていきたい。
今日を大切に生き、思い出という「貯蓄」を重ねながら、後悔の少ない毎日を過ごしていく——そんな生き方を大切にしたいと、このブルネイの旅で改めて感じた。次回は、この旅全体を振り返ってみたいと思う。





